昭和2年(1927年)、叔父は東京府立第一商業学校の修学旅行で当時の満州を訪れていて、と言うか、祖母からはそう聞かされていた。95年も前の話で本人も既に亡くなっており確認のしようもないのだが、その時の「絵はがき」が確かに残されていて、満州事変より4年前のまだゆったりとした満州が感じられる
絵はがきタイトル:平壌名勝絵葉書
葉書には「昭和2年8月15日 朝鮮平壌乙密台」という記念スタンプが押されているので、満州への往路に朝鮮半島を経由したようである。現在の平壌は、言うまでもなく朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の首都ピョンヤンであり、5世紀には高句麗の首都であった
「乙密台から鳥瞰する牡丹台全景及び酒岩の遠望」 平壌近郊の牡丹台(モランボン)は丘陵地帯だった為、5世紀の高句麗時代から要塞が作られ、以後、軍事上の拠点となった
「牡丹台より転錦門(チョングンムン)を越して大同江を望む」 大同江は平壌市内を流れる大河
「大同門 平壌六門の一つ」 平壌の代表的楼閣で6世紀に建てられ、1635年に修築されている
「大同江の眺望豊かなる浮碧楼(プビョンル)」 浮碧楼は高句麗時代の寺の一部を1614年に再建したもの
「日清戦争の最激戦地として有名な玄武門(ヒョンムムン)」丘陵の北端にある門
「乙密台(ウルミルデ)」乙密は高句麗の将軍の名前
「七星門(チルソンムン)」 丘陵西南の門で1712年に修復されている
「奇像に囲まれし箕子陵」とある。紀元前の話ではあるが、箕子(きし)は中国殷王朝の政治家で、朝鮮で「箕子朝鮮」を建国し王となったと言われている。ただ、韓国や北朝鮮では「箕子朝鮮」は中国人が作った国家なので、あってはならない事になっていて、箕子陵も「朝鮮民族への屈辱」として金日成により破壊されてしまって、現在は存在しない