高校1年生の春休み、世の中が大阪万博で沸き立ち、やれ太陽の塔だやれ月の石だと騒いでいるその時、東京発西鹿児島行き急行「霧島」に乗り九州に向かった。東京発11時10分。下車駅は福岡県の折尾(おりお)駅で、到着時間は翌朝の5時59分。乗車時間18時間49分、車内はごった返しており床に座っている人も多く、殆ど座ったままの一人旅であった

中間(なかま)~折尾間の複々線は、途中で中2本がクロスしていて、折尾駅を経て若松に向かう列車と、折尾駅をスルーして小倉に向かう列車を振り分けていた。ストリート・ビューで確認すると、右に写る団地は現在もそのままの様であるが、奥にある丘陵部の森は全て住宅地となり、左側には新駅が出来ていて、この立体クロスも存在していなかった。写真は若松機関区の8620形38634 1970年(昭和45年)3月

中間駅から香月まで香月線が走っていた。香月を出た8620牽引の列車は中間から筑豊本線に入り、そのまま終点・若松駅まで延伸した 

若松からの折り返し香月行き列車は38634号機がバック運転でやって来た

香月線の普通列車の機関車は再び38634号機。どうやら朝は同一仕業のようである

わざわざ何故ここまで足を延ばしたのか記憶にないのだが、筑豊から松浦線に移動して、潜竜(せんりゅう、現在は潜竜ヶ滝)~肥前吉井間にて8620形28629を撮影。早岐(はいき)機関区の煙室戸ハンドルは、独特のデザイン

平戸口駅にて休憩中の早岐機関区8620形58648

乗り換えの鳥栖駅構内で撮った何気ない1枚だが、今となっては顔ぶれがバラエティに富んでいて凄い。手前から鳥栖機関区の入れ替え機8620型38628。寝台特急「あかつき」の電源車マヤ20。ED72 4号機。そしてDD51

1970年当時の筑豊地区には、多くの国鉄路線が入り乱れ、地区内の移動には路線図と時刻表が必須アイテムであった(路線地図は日本交通公社時刻表より転載)

50年が経過したフィルムの状態は甚だしく悪く、デジタルスキャン機も初期の機器を使用したため劣悪な画像となり申し訳ないが、往時の雰囲気を感じて頂ければ幸いです