昭和2年(1927年)、叔父は東京府立第一商業学校の修学旅行で当時の満州を訪れていて、と言うか、祖母からはそう聞かされていた。95年も前の話で本人も既に亡くなっており確認のしようもないのだが、その時の「絵はがき」が確かに残されていて、満州事変より4年前のまだゆったりとした満州が感じられる

タイトル:旅順戦跡記念みやげ

「203高地」は、大連市旅順の市街地から2km位の所にある海抜203mの丘陵で、日露戦争時に旅順を囲むように展開されていたロシア軍の要塞をめぐってその争奪戦が行われ、両軍共に15,000人を超える戦死者を出す大激戦地となった地点である

ロシア軍の要塞のひとつがあった203高地に近い南山坡山(海鼠山)。旅順港にいるロシア極東艦隊を丘の上から攻撃する為、日本軍はどうしてもこの要塞を撃破したいと考えていた

記念スタンプには「昭和2年8月28日」とあり、訪問したのは、激戦のあった23年後である。203高地に立つ慰霊碑は、乃木大将が戦後建立したと言われていて、「爾霊山(にれいさん)」と書かれている。現在、この記念碑はそのまま残っていて、203高地は緑地になり森林公園となっている。因みに203で「にれいさん」であり、「汝の霊を祀る山」と読めるそうである

当初の攻撃目標であった、旅順北東側にある東鶏冠(けいかん)山北堡塁(ほうるい)跡

東鶏冠山方面より北西にある203高地の方が港を攻撃しやすい事が分かり、203高地が攻撃目標となり激戦となった。占領後は5日間で1000発以上の砲弾をここから旅順港に打ち込んだようである。写真には203高地に建つ観測所記念碑とある

旅順市街地に近い白玉山の「納骨神社」。神社の名前も凄いが、神社に大砲とは・・・

この当時、203高地は禿山となっていて、彼方此方に記念碑が建てられていた